なぜ欠点を血液型のせいにするのか

「気持ち」を考える

こんな記事を読みました。

日本人の血液型信仰 「B型」のイメージが悪いのはなぜ?|日刊ゲンダイDIGITAL

1910年代にドイツのデュンゲルン博士により、人種差別の理由づけのために行われた血液型診断に反論する形で、1927年に日本の古川竹二教授が親族11人に対して行った調査が、現在の血液型性格診断の元になっているといわれています。

古川教授の調査はサンプル数も少なく、およそ信頼できるものではないのに、なぜいつまでたっても血液型による性格分類がすたれていかないのでしょうか。

なぜ血液型診断がもてはやされるのか

上に紹介した記事では、このように理由づけがなされています。

人間は分からないものを分かりたい欲求が強く、初対面の人や親しくない人に“ラベルをつける”ことで、判断しようとする

私は初対面の人に会った時に、反射的に「容貌に知人との共通点を見つけ、性格もその既知の人と同類に違いない」とラベリングしてしまいます。

緊張しがちな性格のため、初めて話をする人に対してどのようにふるまえばいいか混乱するのですが、知っている人と似た性格だと決めつけてしまうと、過去のデータベースを参照すればよいので安心するのです。

親しい知人に似ていると思いこむことで、緊張せずに打ち解けて接することができるために、仲のいい人には似た感じの人が多くなるという現象が起こります。

「神経質な人」という事前の情報があれば、地雷を踏まないように対処しようと心構えしておけるので安心です。
その情報に根拠があるのかないのかはさほど関係ない。血液型分類が好まれるのはそういうところなのかもしれません。

「知らない」状態でいることは不安なので、何か役に立つ情報がほしい。
その心情はよく理解できます。

自分の欠点は○○のせい

だんご鼻は親の遺伝、などと自分の不都合な点にはつい根拠を求めてしまいがちです。

「自分はB型だから人に合わせることができない」
「私はO型でおおらかだが無神経だともよくいわれる」

集団行動ができないのも、無神経で人を不快にさせるのも、決して血液型のせいではないはずなのですが、自分の内側にあるよくない性質に対して、「自分ではどうにもならないもの」とラベリングすることで、肩の荷が下りてラクになるのかもしれません。

私はこの責任転嫁タイプではなく、向き合いすぎてただただ落ち込んでいくタイプなのですが、いずれにしても根本的な解決にはなりません。

そもそも欠点は誰にもありなくすことはできないもの。
欠点や自分の嫌な部分を認めるのはなかなか難しいことですが、たいていそういった性質は長所と表裏一体でもあります。


性格判断は一時的な心の避難所

自分が人から「□型ぽくない性格だね」と言われたり、「私は□型だからこういう性格」と免罪符のように血液型が用いられることに対して違和感がありました。

ですが、わからない状態のままでいるのはとても不安なので、一時的にでもわかったような気持ちになって安心したいという気持ちからの言動なのだと考えると、少しは理解できます。

血液型性格判断は差別や偏見にもなるので正直あまり外側には持ち出してほしくありませんが、不安定な状態を嫌って、たとえ根拠がなくてもよりどころになるものにすがる人間の心の複雑さをよく表していておもしろいです。

頭で考えていてもなかなか「短所は長所の裏返し」と切り替えるのは難しいですが、カードゲームで実際に手を動かしてみるという手もあります。一度やったことがありますがなかなか盛り上がりました。

占いで「自分のことを言い当てられている!」と感じるのはなぜか。
認知バイアス・確証バイアスについて学べる本はこちらをおすすめ。軽く読めます。

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