「認められたい」という気持ち・承認欲求にとらわれたら

「気持ち」を考える

「認められたい」心理は誰にでもあるもの。
この気持ちがあるからこそ、頑張ることもできるし、この気持ちが空回りしすぎて、自分も周囲もつらくなることがある。

承認欲求って厄介ですね。

こんな記事を読みました。

人の話をパクっと食べてしまう「話食い」は嫌われる | 思いを伝える技術 | 川井龍介 | 毎日新聞「経済プレミア」

人の話に入ってきて、いきなり自分の話にすり替えてしまう。
人の話に対して、自分もそれをすでに知っているとアピールする。

話食い」という言葉ができているとは知りませんでした。普及してるんでしょうか?

話を横取りする人の心理

ふだんの会話というのは「今朝こんなことがあった」「この前のお休みはこんなことをした」という積み重ねなので、誰もが基本的に「自分のことばかり」話しているはずなのですが、「このひとは自分の話ばかりする」という印象を相手に持たせてしまうのは、「話す」と「聞く」のバランスがよくないのでしょう。

話を自分中心の内容にすり替えてしまう人には、次のようなタイプがありそうです。

  • サービス精神旺盛
  • 頭の回転が速い
  • 話をする場所がほかにない
  • 自分のすごさを認めてほしい

サービス精神旺盛

単純に、おもしろい話・興味深い話で場を盛り上げようとしている。

頭の回転が速い

せっかちなので、相手の話を聞いていられなくて、話に横入りしたり結論を先に提示しようとしたりする。

話をする場所がほかにない

家庭や身近に自分の話を親身に聞いてくれる人がいないので、職場などで適切な距離感を見失って、自分の話ばかりしてしまう。

たまたま近くにいる特定の知人や友人、職場の同僚を、自分の寂しさをまぎらわすため、ストレスを解消するための受け皿にしてしまうと、知らないうちに他人から厄介な存在と認定されてしまいます。

自分のすごさを認めてほしい

劣等感を抱いていて、自分がもっとできる・人脈が広い・知識が深いことを周囲の人に知ってほしい。

ただのクセ

人の話に横やりを入れる人は、上記のタイプに加えて「ただ単にそれがクセになっている」というケースがあるのではないかと感じることがあります。

私は血圧が低めの体質なのですが、そのことを話した時、普段から「話食い」の人が即座に「私も低いんです!」と返してきて、思わず笑ってしまったことがありました。

血圧が低いことは全然すごいことでもないし、そこで競争心を燃え立たせても意味がないことなので、この人はもう反射的に人が言ったことに対して「私も」と言うことがクセになっているのではないかとその時感じました。

私自身、周囲の人と軽い話題で会話をやり取りするのが苦手です。
一般的な話題ではなくて、あまりメジャーではないものごとが大好きなので、たまにそういう話が持ち上がると嬉々として参加するのですが、そのテンションの高さにまわりを引かせていないか、なにかおかしなことを言ったりしていないか心配になったりします。

会話はキャッチボールでないといけない、と気をつけてはいるのですが、なかなか難しいところです。

承認欲求

『「認められたい」の正体 承認不安の時代』という本では、承認欲求は「親和的承認」「集団的承認」「一般的承認」の3タイプがあると述べられています。

宗教やイデオロギーなど社会的価値観の存在感が薄れてきたことで、職場や身近な交流関係などの狭い範囲で「集団的承認」される必要性が大きくなった。

身近な人に承認を求める「空虚な承認ゲーム」に熱中し、狭い承認のなかに釘づけられているのは、決して安定した状態ではありません。

この本のなかにも具体的な解決策は提示されておらず、承認欲求は確かに「呪縛」なのかもしれないと感じます。


「認められたい」という気持ちにとらわれたら

誰にも「認めてほしい」と焦る時期はある

結婚退職した頃、小さな子供の世話に時間を取られていた頃は、自分の現状に満足できず、「認められたい」「私はまだまだできる」という気持ちにとらわれていました。

やりくりできる時間は限られているのに、睡眠時間を削って、新しいことを学んだり挑戦したりを続けていました。

それなのにその頑張りを認めてもらえる場がなくて、とげとげした気持ちを抱えていた時期もありました。

誰かと比べることで安心したくなったら

不安感が強くなると、身近な人との優劣を気にしてしまうものですが、周囲のひとに競争心を感じてしまったり、自分をアピールせずにはいられない心理状態になったら、「ひとは『人よりすぐれている』という理由で尊敬・尊重されるわけではない」というところに立ち戻るようにしています。

これは、「認められたい」と渇望しているひとが近くにいると、よくわかります。
認めてほしくてアピールしても、必ずしも「すばらしい」と思ってもらえず、むしろその逆であることを、反面教師として学ぶことができます。

承認欲求が強い人とのつきあい方

カチンとくるのは似た者同士だから

自慢話をしたり物知りアピールばかりしてくる人が鼻についたとき、その嫌悪感は同じように優劣をつけようとしてしまっている自分を映す鏡だと考えます。

自慢話にカチンとくるのは、自分が同じポイントに「羨ましい」と感じるから。
なぜ自分がそこに羨ましさを感じるのかを深掘りしていくと、自分のやりたいことに出会えるかもしれません。

逆に、よくよく考えたら、「別に羨ましくないか」という結論に達した、ということもあります。

相手をよく知ることで嫌悪感を減らす

なぜその人に対して自分が嫌悪感を抱くのか、分析したくて、あえてその人の話を「傾聴」してみたこともありました。
自慢は、職場の人たちにそのひとが感じているコンプレックスの裏返し。
とっくの昔に辞めた前の会社の職務やネームバリューをひけらかすのは、現状に満足できていないから。
話を全部自分のことにすり替えてしまうのは、自分の話を共感しながらじっくり聞いてくれる友人や家族がいないから。

かわいそうと思うことで、イライラする自分の心理状態をよい方に持っていけるかもしれません。

同情することで、自分のストレスを解消できるかと思い、試してみましたが、実際には、相手から「この人は話を聞いてくれる人」と認定され、状況は悪化してしまいました。

この方法は、相手を「発言小町的コンテンツ」として楽しめる、斗比主閲子さんのようなメンタルの強さがないと難しいように思いました。

特に職場では、仕事と関係ない話を聞かされる時間が多くなるということは、実務面でも感情面でもよくない状態です。
話を聞くことにストレスを感じるなら、話をしなくて済むように、物理的にも心情的にも距離を置くのが、自分にとってはいちばんよい方法のように感じています。

距離を置いて客観視する

誰もみんな、認めてもらったら嬉しいし、自分を大切にしてほしい。
そのためには、相手のことも大切にしなければならないし、自分のことをないがしろにする人とは距離を置くのが良策です。

私の暫定的解決法

職場やママ友づきあいなど、比較的小さなコミュニティのなかで、「こんなこと知っている?」「私こんなことを頑張っているの」というようなことを頻繁にアピールしていると、周囲も困惑してしまいます。

そもそも周囲の人たちは、自分を認めてくれる役割のためにそこに存在しているわけではないのです。

ブログを書いている私も承認欲求が強いのだと思います。

最近ではあまり自分の承認欲求に対してネガティブな気持ちはなく、「共感してほしい」「見てほしい」という承認欲求をいい形で働かせることで前進していきたいです。

「こういうことを新しく知ったよ」「こういう便利なものがあるよ」と小さな世界でシェアすることは、物知りアピールばかりするうっとうしい人と思われてしまいそうですが、ブログやSNSなどより広い世界で展開すれば、その情報を必要とする人にきちんと届いて役に立つうえ、身近な人たちの評価に対する依存度が小さくなり、一石二鳥です。

「私はこんなに頑張っている」と主張したい気持ちや、その野心そのものが、誰かを勇気づけることがあるかもしれません。

承認欲求の呪縛から逃れるひとつの方法として、ブログという手段で世界を広げるのも一案です。

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