柴田元幸氏「エドワード・ゴーリーの優雅な秘密展」トークイベント

イベント

「教えて 柴田先生!翻訳から探るゴーリーの魅力」 と題した、柴田元幸氏のトークイベントの事前申込に応募したところ、ラッキーなことに当選したので、広島よりいそいそ参加いたしました。

ゴーリー展柴田元幸トークイベント

以下レポートをまとめますが、走り書きメモを頼りに書いているので、間違っている部分もあるかもしれません。私自身の備忘録として。

むしのほん(オープニングアクト)

地元下関の中高生による朗読でした。
柴田さんとのコラボなんて最高の経験ですね!
田舎に住んでいると(私自身は下関が都会に見えるようなところで育ちました)、美術展の巡回にしろ都会と比べると機会が圧倒的に少ない中で、こういう経験ができた彼女たちがとてもうらやましかったです!

一見色つきで、ゴーリー作品の中でもかわいらしさを感じる作品だが、そのなかに、逆の要素がある。
黒い虫=「アウトローなひとたち」へのシンパシー、など、いろいろな読み方ができる作品。
19世紀のイギリスぽさの中に、アメリカぽさも内包されている。

ゴーリー作品に影響を与えている作家・作品は?

ゴーリーは、「3人のエドワード」エドワードと名の付く3人のアーティストに影響を受けているそうです。
「3人のエドワード」、帰って調べました。

エドワード・ボーデン、エドワード・アーディゾーニ、そして『ジャンブリーズ』のエドワード・リアだそうです。

仏映画監督・フィヤードの作品にも影響を受けているようで、彼の作品にはまるでゴーリーの絵のようだと感じる映像が多いとのこと。(ちょうどゴーリーの生年に没している、このフィヤードのことだと思うのですが、もし間違えていたら教えてください)

ゴーリーは小さなころから怪奇作品に親しんでいて、5歳でドラキュラ、7歳でフランケンシュタインを読むほどの怪奇小説好き。ゴーリーチョイスの怪奇小説集『憑かれた鏡』は、ディケンズの『信号手』、ジェイコブズの『猿の手』など、王道の怪奇作品がそろったセレクション。

ゴーリーは現代の映画も幅広く見ていて、誰に自分の映画を撮ってほしいか質問すると、すらすら名を上げるくらい造詣が深いけれども、強く影響を受けているのはやはり初期の無声映画。リリアン・ギッシュの名も挙がっていて、なるほどなと思いました。


みんなと違うことをやるゴーリーが好き

ビクトリア朝はちょうど子供向けの本ができたころですが、内容的には教育的というか、こんな悪いことをしたらこんな羽目になるよ、というような、子供を説教するための本が多かったそうです。
ゴーリーはその中からセンチメンタルな要素を抜き去り、彼ならではのドライな世界観を作り上げています。
矛盾や、話がまとまらないおもしろさのある作品に、ゴーリーぽさを感じるのではと柴田さんはおっしゃっていました。

ナンセンスで不穏で、なのにユーモアがあって、というゴーリーぽさがある作品として、私は佐々木マキさんの絵本を思い浮かべました。子供の頃に読むと、忘れられなくて悪い夢を見てしまいそうな作品もありますが、好きな作家さんです。
柴田さんがおっしゃっていた、絵本の全体主義っぽさ、予定調和で大人の求めるような物語運びがないので、子供時代の私はとても気に入って読んでいました。

おお、これも河出書房新社から出ている。

ナンセンスだったりグロテスクだったり反社会的だったりといった要素があっても、絵画の世界では特に何も言われないし個性の一部として受け入れられるのでしょうが、絵本というジャンルにあるがゆえに風当たりを強く受ける作品というのが一定数存在しています。
ゴーリー作品を愛する人は、人と違うことだろうがなんだろうが、やりたいからやっている、書きたいから書いている、という彼の姿勢も含めて好きなんだろうな、と感じました。
人と違う、といえば、うちの子は小学校低学年の頃に『アンネの日記』を読んだのですが、読んだ後で感想を聞いてみると、「死んだ死んだ、みーんな死ぬはなしだった」とあっけらかんと述べるようなふしぎな感覚を持つひとです。アンネの結末に泣いたり悲しんだりするのかなと思っていた親にとっては意外な感想で少々ショックも受けたのですが、こどもはかならずしも大人の望むような本の読み方をするわけではないのだなと実感したできごとでした。
そんな彼女がとても好きなのは「ギャシュリークラムのちびっ子たち」です。

終わった後でこの本にサインしていただいたのですが、こどものことなどまったく頭になく、嬉々として自分の名前を書いてもらった私です。

字幕と小説の日訳の違い

ソール・ライターの映画の字幕を担当して感じた、字幕翻訳と小説などの翻訳との違いを語ってくださいました。

写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと

気分的には逆の行為で、小説を訳すのは、ふくらませていく、重ね塗りであるのに対し、字幕翻訳は字数を削っていくことに多くを費やす。字数制限により、語尾を練る余裕がないことが小説と大きく違う。
ソール・ライターは比較的ぼそぼそとゆっくり話すので、通常の字幕翻訳より余裕があり、普通なら削られるであろう、けれども雰囲気を表すには必要なことばを残せた。

『ヘンリー・キングのさまざまな死』朗読

原書自体、今月発売のこの本の日本語訳を、柴田さんが英語と日本語で朗読してくださいました。なんという贅沢。

ヘンリー・キングという一人の人間がありとあらゆる死に方で死んでいきます。
表紙からして、ゴーリーのギャシュリークラムへのオマージュであることが感じ取れるこの作品は、Brian EvensonとJesse Ballの共作。こんな死に方、あんな死に方をメールでやり取りしながらまとめたもので、もはやどちらがどちらの書いたものかわからなくなっているそう。

柴田さんの日本語訳はコリコリと口当たりよく耳触りよくひびきました。
“さりとてそこなしにやすものでもなく”というフレーズを気に入って、メモしていました。やや凹凸のある物体が上下に揺れながら坂道をころがりくだっていくような、ここちよいリズム。

(多分)何か悪いことをしたわけでもないのにヘンリー・キングはひたすら死にまくり、読んでいるこちらはクスクス笑っているという、よく考えるととても気の毒なはなしです。

『首なし胸像』朗読

ゴーリーの最後の作品、The Headless Bust(『憑かれたポットカバー』の続編としての位置づけ)を、英語と日本語で朗読してくださいました。

この最後の作品を描いたとき、すでにゴーリーは70代。それもあり、過去の作品と比べ線の粗さを感じるが、それがまた味があってよい。もしかするとこの作品はしっかりと練ることのないまま出版されたかもしれない、それほどの「わからなさ」。わからなさを楽しむ本。

ゴーリーぽさを感じる音楽作品

The DoorsのStrange Days

ジムモリソンの、「少女」という対象への距離の置き方、抽象的・観念的な詞・歌い方がゴーリーぽさを感じる

Blind Willie McTellの Just As Well Get Ready, You Got To Die

この曲の、子供がよく死ぬディケンズの作品のような19世紀ビクトリア朝イングランドの雰囲気が、ゴーリーを連想させる。

ゴーリーから影響を受けたのではないかと感じる作品

あるいはゴーリーに挿絵を描いてほしい作品として、聞き手の泉澤さんがとりあげたのが、アーヴィングの『ガープの世界』に作中作として出てくる、『ペンション・グリルパルツァー』。

私が最初にこの作品を読んだのは、短編集『ピギー・スニードを救う話』だったと思います。

角田光代さんが『ガープの世界』が好きだというのをどこかで聞いて読んでみましたが、とても難しく感じた記憶があります。(まだ『ホテル・ニューハンプシャー』の方がおもしろく読めました。)これを機会にもう一度読んでみようと思います。

そのほか

ゴーリー作品の邦訳の刊行順序は誰が決めているのかとか、ダイベックと柴田さんの共通点についてとか、興味深いお話をたくさん聞くことができました。
得難い機会を提供してくださったみなさまに、この場を借りてお礼を申し上げます。

ゴーリー展は、福島・伊丹ときて下関が3か所目。2年をかけて日本国内を巡回するそうなので、きっと広島にも来るだろうと期待しているのですが、今回参加することができて本当によかったです。柴田さんとお話をすることもできたし、うふふ。
本好きが高じて、日本語だけでは飽き足らず、英語や中国語で原書を読み漁る(漁るといえるほどたくさん読めてはいませんが)ようになりました。

邦訳の出ていない作品を読んですごく気に入ったとき、あるいは、好きな作品の好きな箇所を日本語に訳してみて、うまくトンネルの向こうからこっちへと、ことばを引っ張り出せたときのあの嬉しさ、そういった情熱を柴田元幸さん、聞き手の泉澤さんのお話から感じ取ることができた、とても幸せなひとときでした。
ゴーリー展については、また別の記事であらためて。
息をつめて見入るほかない作品がたくさん並んでいました!10月23日までなのでみなさまぜひ!

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